────and she said. なにもかもを受け入れるのなら、傷はつかない。 自分に合わない事も。 自分が嫌いな事も。 自分が認められない事も。 反発せずに受け入れてしまえば、傷はつかない。 なにもかもをはねのけるのなら、傷つくしかない。 自分に合ってる事も。 自分が好きな事も。 自分が認められる事も。 同意せずにはねのけてしまえば、傷つくしかない。 ふたつの心はガランドウ。 肯定と否定の両端しかないもの。 その中に、なにもないもの。 その中に、私がいるもの /伽藍の洞 ────────────────────────────── /0 「ねえ、三階の個室の患者さんの話、聞いた?」 「あったりまえでしょう。そんなの昨日の夜のうちに知れ渡ったわよ。冗談ひとついわない脳外科の芦家(アシカ)先生からして取り乱したんじゃ、こっちにだって筒抜けになるわ。 …でもほんと。信じられないけど、あの患者さん回復したんですってね」 「ちがうちがう、そうじゃないんだって。 ま、たしかにあの娘の話なんだけど、それって続きがあるのよ。あの患者さん、昏睡から回復するなり何をしたと思う? 驚くなかれ、自分で自分の目を潰したんだって」 「──なによそれ、ほんとのはなし?」 「うん。院内じゃタブーになってるみたいだけど、ちょうど芦家先生につきそってた看護婦から聞いたんだから間違いないわよぉ。 先生が目を離したすきに手のひらで目蓋の上から自分の目を圧迫したんだっていうんだから、ホラーよね」 「まって。あの子、二年間寝たきりだったんでしょ? なら体が動くはずないじゃない」 「そうなんだけどぉ。あちらのお家ってお金持ちでしょ? 入院中あたしらが丁寧にリハビリテーションしてあげてたから、関節とかは固まってなかったんだ。 でもまあ、本人が動かしてたわけじゃないから関節も不自由でうまく動けなかったみたい。そのおかげで両目潰しは未遂に終わったんだけどさ」 「───それでもすごいわよ。 横臥は楽な反面、体がもっとも弱りやすいって習ったでしょ? 二年間も眠ってたら、ほとんど人間として機能しないでしょうに」 「だから先生も油断してたんでしょうね。ほら、なんていったけ。白目が出血するケース」 「球結膜下出血」 「そう、それそれ。普通は自然治癒するらしいんだけどさ、緑内障に一歩手前まで眼球を圧迫したとかで今は目が見えない状態なんだって。本人の希望で目だけを包帯でぐるぐる巻きにしてるって話」 「ふぅん。じゃあ、あの患者さんは目が覚めてから一度も日の光を見てないのね。…闇から闇か。ちょっと普通じゃないな」 「ちょっとじゃないよぅ。それにさ、問題はまだあるんだ。どうもさ、失語症? そんな感じなんだって。うまく会話ができなくて、先生は知り合いの言語療法士を招くって。うちの病院、そういう人いないじゃん」 「荒耶(アラヤ)先生は先月辞めてしまったものね。でも───そうな ると、その患 者さんは面会謝絶になるのかな」 「そうみたいよ。精神状態が安定するまで、ご両親も日に少ししか会えないんだ って」 「そっか。そうなるとあの男の子、可哀相ね」 「? 誰、男の子って」 「知らない? 患者さんが運ばれてから毎週土曜日に見舞いにくる子がいるのよ。 もう男の子って歳じゃないんでしょうけど、あの子には会わせてあげたいわ」 「あ、例の子犬くんね。へえ、まだ通ってたんだ。いまどきには珍しく真摯じゃ ない」 「ええ。この二年間、あの子だけが患者さんを見守ってた。 だから───患者が回復した奇蹟の何分の一かは、あの子のおかげなんじゃな いかなって思う。 …何年もこの仕事やってて、そんな夢を口にするなんてわたしもどうかしてる とは思うんだけど、さ」 ────────────────────────────── /1 ◇ 其処は暗く、底は昏かった。 自分のまわりにあるのが闇だけと知って、私は死んでしまったのだと受け入れた。 光も音もない海に浮かんでいる。裸で、何も飾らないままで、両儀式という名前 のヒト型が沈んでいく。 果てはなかった。いや、はじめから墜ちてなどいなかったのかもしれない。 ここには、何もないから。 光がないんじゃなくて、闇さえもない。何もないから、何も見えない。墜ちてい くという意味さえない。 無という言葉さえ、おそらくはありえまい。 形容さえ無意味な「 」の中で、私の体だけが沈んでいく。裸のままの私は、目 を背けたくなるほど毒々しい色彩をしている。ここでは「ある」ものは全て毒気が 強すぎるから。 「───これが、死」 呟く声さえ、たぶん夢。 ただ、時間らしきものを観測する。「 」には時間さえないけれど、私はそれを観 測できてしまう。 流れるように自然に、腐敗するように無様に、時間だけを数えていた。 何もない。 ずっと、ずっと遠くを見つめていても、何も見えない。 ずっと、ずっと何かを待ちつづけても、何も見えない。 とても穏やかで、満ち足りている。 いや────あらゆる意味がないから、ここではただ「ある」だけで完璧なんだ。 ここは死だ。 死者しか到達しえない世界。生者では観測できない世界。 なのに、私だけが生きているなんて─── 気が、狂いそうだった。 二年間。私はここで死という観念と触れていた。 それは観測ではなく、むしろ戦いの激しさに近かった。 ◇ 朝になって、病院はにわかに騒がしくなりだした。 廊下を行く看護婦の足音や起きだした患者達の生活の雑音が幾重にも繰り返される。 夜中の静けさに比べると、朝のあわただしさはお祭りみたいに感じられた。 目が覚めたばかりの私には、その賑やかさは大きすぎる。 幸い、私の病室は個室だった。外は騒がしいが、この箱の中だけは静かで落ち着ける。 ほどなくして、医師が診察にやってきた。 「気分はどうですか、両儀さん」 「───さあ。よく、わからない」 感情のない私の返答に、医師は困ったふうに黙り込む。 「…そうですか。ですが、昨夜よりは落ち着いているようですね。辛いでしょうが、現 在の貴女の状況をお話します。気分が悪くなったのなら遠慮なく言ってください」 医師の言葉に私は無言で返答した。 そんな、わかりきった事なんて興味はなかったから。 彼はそれを承諾の意と勘違いしたようだ。 「では、簡単に説明します。 今日は九十八年の六月十四日です。貴女───両儀式さんは二年前の三月五日の深 夜に交通事故によって当院に運ばれました。横断歩道上での、乗用車との接触事故です。 覚えがありますか?」 「…………」 私は答えない。───そんな事は知らない。 記憶という引き出しから取り出せる最後の映像は、雨の中で立ち尽くすクラスメイト の姿だけだ。なぜ自分が事故にあったのか、なんて事は覚えていない。 「ああ、思い出せなくても不安がることはありませんよ。両儀さんは乗用車と接触する 寸前、それに気がついて跳びのいたようなのです。それが幸いしたのか、身体面での傷 は重くなかった。 しかし、その反面で強く頭部に衝撃を受けたようです。当院に運びこまれた時点で意 識は昏睡状態でしたが、脳そのものに傷はないようでした。ですから記憶が思い出せな いのは二年間の昏睡状態による一時的な意識の混乱でしょう。昨夜の診察では脳波に異 常はみられませんでしたからね。 まあおいおい回復されるでしょうが、絶対とは言いきれません。なにぶん、昏睡から の回復そのものからして前例がないのです」 二年間と言われても、私にはあまり実感がわかない。 眠っていた両儀式にとって、その空白は無に近しい。 両儀式にとって昨日とは間違いなく二年前の雨の夜の事だろう。 けれど、私にとってはそうではない。 今の私にとって、昨日はそれこそ「無」だ。 「また、両目の傷も重いものではありません。鈍器による傷は眼球の中でもっとも軽い ものですからね。昨夜、貴女の近くに刃物がなくて幸いでした。包帯もじきにとれるで しょう。外の景色を見るのは、あと一週間ほど我慢してください」 医師の台詞にはどこか非難がましい響きがあった。 彼は私が自分から目を潰そうとした事に迷惑しているのだろう。昨夜もどうしてそん な事をしたのか問い詰めてきたが、私は答えなかった。 「これからは午前と午後に身体面のリハビリテーションを行なっていただきます。ご家 族の方との面接は日に一時間程度が適切でしょう。体と心のバランスが整えばすぐに退 院できます。辛いでしょうが頑張ってください」 予想通りの台詞に興醒めする。 私は皮肉を口にするのも疲れて、自分の右手を動かしてみた。 …体は、そのどれもが自分の物ではないようだった。動かすのに時間がかかるし、関 節や筋肉がばりばりと破けていくように痛む。…二年間も使っていなかったのだから、 それも当然なのだろうが。 「では、今朝はこれで。式さんも落ち着いたようですから看護婦はつけません。 何かご用の時はそこのボタンを押してください。隣室に看護婦が控えています。些細な 事でも遠慮なく使ってやってください」 やんわりとした台詞。目が見えていたのなら、私は医師のインスタントな笑顔を見て いた事だろう。 かつかつと去っていく医師は、最後に思い出した、とばかりに一言つけたしていった。 「ああ、そうでした。明日からカウンセラーがこられます。両儀さんにわりと近い年齢 の女性ですから、気軽に会話してください。今の貴女には、会話は回復に欠かせないも のですから」 … そうして、私はひとりになった。 病室のベッドの上で横になって、自ら閉ざした瞳を抱えて、ぼんやりと存在する。 「自分の名前────」 乾いた唇で、言った。 「両儀、式」 けど、そんな人間はここにはいない。 二年間の無が私を殺したから。 両儀式として生きてきた記憶は全て鮮明に思い出せる。 でもそれがなんだっていうのだろう。一度死んで、生き返った私にとってそんな記憶が 何になるというのか。 二年間の空白は、かつての私と今の私の繋がりを完全に断ってしまっている。私は間 違いなく両儀式で、式以外の何者でもないのに───かつての記憶が、自分の物と実感 できない。 こうして蘇生した私は、両儀式という人間の一生をフィルムにして見ているだけなの だ。映画の登場人物を、私は私と思えない。 「まるで、フィルムに映った幽霊みたい」 唇をかむ。 私は、私がわからない。 自分が本当に両儀式なのかさえあやふやだ。 私が、なにか得体のしれない者のように思える。 体の中身は空っぽで、洞窟みたいだ。空気でさえ風みたいに通り過ぎる。理由はわか らないけれど、本当に、胸に大きな穴が開いてしまっているようだ。 それがとても不安で───とても淋しい。 欠けたパズルのピースは心臓。その空隙に、軽い私は耐えられない。 空っぽすぎて、生きる理由も見当らない。 「それが────どうしたっていうんだ、式」 言葉にしてみれば、どうという事はなかった。 不思議な事に───胸をかきむしらなければならないほどの不安や焦燥を、私は苦し いとも悲しいとも感じない。 不安はある。痛みもある。 でもそれは、あくまで両儀式だったものが抱くものだ。 私は無感動だ。二年間の死からの蘇生にも興味はない。 ただユラユラとここにいる。 自分が生きているなんて、とても実感できないままで。 ────────────────────────────── /2 次の日になった。 光をとらえられない今の自分にも朝の到来がわかるのは、ちょっとした発見だ。 私はそんなどうでもいい事が、やけに嬉しかった。なぜ嬉しいのかと考えているうち に朝の診察が始まり、いつのまにか終わっていた。 午前中はあまり静かではなかった。 母と兄が面会に来て、話をした。まるで他人のようで、会話は噛み合いもしない。仕 方なく式の記憶通りの対応をすると、母は安心して帰っていった。 芝居をしているようで、何もかも滑稽だった。 午後になって、カウンセラーがやってきた。 一応言語療法士だという女性は、底抜けに明るかった。 「はぁい、元気?」 なんて挨拶をする医師の話を、私は聞いた事がない。 「へえ。やつれてるかと思ったけど、肌のつやとかキレイなのね。話をきいた時はね、柳 の下にいる幽霊みたいなのを想像しちゃてあんまり気乗りがしなかったんだけど。 うん、私好みの可愛い娘でラッキーじゃん!」 声の質からして二十代後半らしき女性は、私が眠るベッドの横に椅子をおいて座り込む。 「はじめまして。貴女の失語症の回復を助けにやってきた言語療法士です。ここの人間じ ゃないから身分証明書はないんだけど、目が見えないならどうでもいい問題よね」 「───失語症って、誰が」 つい言い返すと、女医はうんうんと頷いたようだ。 「そりゃあ、ふつう怒るわよね。失語症ってあんまりいいイメージないし、なおかつ誤診 だし。芦家(アシカ)クンは教科書通りの人間だ からさ、あなたみたいな特殊なケースには弱 いのよ。でも、あなたも悪いわよ。面倒くさがって何も話そうとしないから、そんな疑い をかけられちゃう」 さも親しげに、女性はくすくすと笑う。 ───完全な偏見だが。私は、この相手が眼鏡をかけている人間だと決めつけた。 「失語症と、思われてたんだ」 「そうよ。あなたは事故で脳やっちゃってるしね。言語回路が破損してるんじゃないかっ て。でもそれは誤診。あなたが話をしないのは身体的なものじゃなくて精神的なものでしょ う? だから失語症じゃなくて無言症。会話できるのにしたがってないだけよね。 そうなると私はお役目後免になるんだけど、わずか一分たらずでクビっていうのもイヤ な話でさ。ちょうど本業も暇だから、しばらく付き合ってあげるわ」 …余計なお世話だ。 私は看護婦を呼ぶボタンに手を伸ばす。 と、女医はボタンをすばやく私から取り上げた。 「───おまえ」 「危ない危ない。芦家クンに今の話を言われたら、私はすぐさま退場だものね。いいじゃ ない、失語症だと思わせておけば。あなたもつまらない返答をする必要がなくなるんだか ら、お得でしょ?」 …それは、たしかにその通りだ。けれどそれをはっきりと口にするこの人物は何者なん だろう。 私は包帯に巻かれた瞳を正体不明の女医に向ける。 「おまえ、医者じゃないだろ」 「ええ、本業は魔法使いなの」 呆れて、私は息をはいた。 「手品師に用はないよ」 「あはは、確かにそうね。あなたの胸の穴はマジシャンじゃ埋められない。埋められるの は普通の人だけだもの」 「───胸の、穴───?」 「そ。気付いてるんでしょ? 貴女は、もう一人なんだって事を」 クスリと笑って、女 医は立ち上がった。 片付けられる椅子の音と、立ち去っていく足音だけが私に届く。 「まだ早すぎたみたいだから、今日はここまでにしとく。また明日くるから、バイ」 唐突に現れて、唐突に彼女は去っていった。 私は動きにくい右手で、口元に手をあてた。 もう、ひとり。 胸に空いた、穴。 ───ああ、なんて事だろう。 なんて事を、私は失念していたんだ。 いない。どこに呼びかけたって、彼がいない。 両儀式の中にいたもう一人の人格である両儀織の気配が、綺麗さっぱりなくなっている ────。 ◇ 式は、自らに異なる人格をかかえる二重人格者だった。 両儀の家柄には遺伝的にふたつの人格を持ってしまう子供が生まれる。世間一般の家庭 なら忌み嫌われるそれは、両儀の家では逆に超越者として祀(マツ)られ、正統な後継ぎとし て扱われる。 …式はその血を受け継いだ。男子である兄を差し置いて女の式が後継ぎになっているの はその為だ。 けど、本来はこんな事はおこらない。 ふたつの人格───陽性である男と陰性である女の人格の主導権は、陽性である男性の が強い。今までの数少ない"正統な"両儀の後継ぎは、全員が男性として生まれ、その内 に女性としての人格を持っていた。 けれど式は何かの手違いでそれが逆転してしまったのだ。 女性としての式の内に、男性としての織が内包された。 肉体の主導権を持つのが女性である式───つまり私。 織は私のマイナス面の人格で、私の抑圧された感情を受け持っていた。 式は織という負の闇を圧し殺して生きてきた。何度も何度も、自分という織を殺して普 通のふりをして生きていた。 織本人は、それに格別不満もなさそうだった。彼はたいてい眠っていて、剣の稽古の時 などに呼び起こすと退屈そうにそれを請負った。 …まるで主人と従者の関係だけれど、本質はそうじゃない。式と織は結局のところ、ひ とつなだ。式の行動は織のもので、織が自身の嗜好を圧し殺すのは彼本人の望みでもあっ た。 …そう。織は殺人鬼だった。私が知るかぎりでその経験はなかったが、彼は人間という 自分と同じ生物を殺害する事を望んでいた。 主人格である式はそれを無視した。ずっと、それを禁じてきた。 式と織は互いに無視しあいながらも、なくてはならない存在だった。 …式は孤立していたけれど。織というもう一人の自分のおかげで、孤独ではなかったから。 でも、その関係が壊れる時がやってきた。 二年前。───式が高校一年生だった時。 今まで肉体を使いたがらなかった織が、 自分から表に出たいと願いはじめたあの季節────。 そこから式の記憶は曖昧だ。 今の私では、高校一年の頃から事故に会うまでの式の記憶が呼び出せない。 覚えているのは───殺人現場に居合せている自分の姿。 流れでる赤黒い血液を見て、喉をならす自分の姿。 けれどそれより、もっと鮮明に覚えている映像がある。 赤くて、炎えるような夕暮どきの教室。 式を壊してしまった、あのクラスメイト。 シキが殺したかった、ひとりの少年。 シキが守りたかった、ひとつの理想。 それを、ずっと昔から知っている気がするのに。 …彼の名前だけが、まだ、私は思い出せないでいた──。 ◇ 夜になって、病院は静かになった。 ときおり廊下に響くスリッパの音だけが、私は目覚めているのだと感じさせる。 闇の中で───いや、闇の中だからこそ。 何も見えない私は、自分がひとりだと痛感する。 かつての式なら、その感覚はなかっただろう。 自らにもう一人の自分を抱えていた式。けれど織はもういない。 いや───私は、自分が式であるのか織であるのかさえわからない。 私の中には織がなかった。ただそれだけの事で、私は自分が式だと認識する。 「くく…なんて矛盾。どちらかがいなければ、自分がどっちかが分からないなんて」 嗤ってみたけれど、胸の空虚さは少しも埋まらない。せめて悲しいとでも思えれば、こ の無感動な心にだってなにか変化があるだろうに。 自分がわからないはずだ。 私は誰でもないから、両儀式の記憶を自分の物と実感できない。 両儀式というカラだけあっても、その中身が洗い流されてしまったのでは意味がない。 …いったい。このガランドウの入れ物には、どんな物が入るのだろうか。 「───ボ。クガ、ハイ、、る。。ヨ」 ふと、そんな音が聞こえた。 扉が開いたような空気の流れ。 気のせいだろう、と私は閉ざされた瞳を向ける。 そこに─────いた。 白いモヤが、ゆらゆらとゆらめいていた。 見えないはずの私の目は、そのモヤの形だけをとらえている── モヤは、どことなく人間に似ていた。いや、人間がクラゲのように骨抜きになって風に 流されている、としかとれない。 気色の悪いモヤは、一直線に私に向かってきた。 まだ体が満足に動かない私は、それをぼんやりと待った。 これが幽霊というものだとしても、恐くもない。 本当に恐ろしいのはカタチが無いモノだ。たとえどんなに奇怪なものでもカタチがある ものなら、私は恐いとは感じない。 それに────幽霊であるのなら、今の私も似たようなものだろう。生きていないコレ と、生きる理由のない私に大差はないのだから。 モヤは私の頬に触れてきた。 全身が急速に凍えていく。背筋に走る悪寒は鳥の爪めく鋭い。 不快な感覚だったけれど、私はそれをぼんやりと見つめ続けた。 しばらく触れていると、モヤは塩をかけた蛞蝓みたいに溶けていった。 理由は簡単だ。モヤが私に触れていた時間は五時間ほどあった。時刻はじき午前五時 になる。 朝がきたから、幽霊は朝日に溶けていったのだ。 眠れなかった分、私はこれから寝なおす事にした。 ────────────────────────────── /3 私が回復してから何日めかの朝がやってきた。 両目はまだ包帯で巻かれたままで何も見えない。 誰もいない、静謐(セイヒツ)な朝。 さざなみのような静けさは、華麗すぎて我(ガ)を失う。 …小鳥の囀(サエズリ)が聞こえる。 …陽射しの温かさを感じる。 …澄んだ空気が肺に満たされる。 …ああ。あの世界に比べて、ここはとても綺麗だ。 なのに、それを喜びもしない自分がいる。 ただ気配だけで感じる朝の空気に包まれるたびに、思う。 こんなにも幸福なのに。 人間は、こんなにもひとりだ。 ひとりでいる事は何にもまして安全なのに、どうしてひとりでいる事に耐えられない のか。 かつての私は完成されていた。ひとりで足りていたから、誰も必要ではなかった。 けど、今は違う。わたしはもう完全じゃない。 足りない部分を待っている。こうしてずっと待っている。 でも、私はいったい、誰を待っているというのだろう…? ◇ カウンセラーを名乗る女医は毎日やってきた。 いつのまにか私は彼女との会話をうつろな一日の確かな拠り所にしているようだった。 「ふぅん、なるほどね。織クンは肉体の主導権がなかったんじゃなくて、使わなかった だけなんだ。ますます面白いな、あなた達は」 相変わらずベッドに椅子をよせて、女 医は楽しげに話をする。 どういうわけか、彼女は私の事情をよく知っていた。 両儀の家の者しか知らない私の二重人格の事も、二年前の通り魔事件に私が関わって いた事も。 本来ならば隠し通さなければそんな事柄は、けれど私にとってはどうでもいい事だ。 知らず、私はカウンセラーの軽口に相づちをいれるように会話をしていた。 「二重人格に面白いも何もないと思う」 「ちっちっち。あなた達のはね、二重人格なんて可愛いものじゃないわ。いい? 同時 に存在して、それぞれが各個たる意志をもっていて、なおかつ行動が統合されている。 こんな複雑怪奇な人格は二重人格じゃなくて、複合個別人格というべきね」 「複合…個別人格───?」 「そう。けど、少し疑問が残る。それなら織クンは眠っている必要なんかないのよ。あ なたの話じゃ彼はいつも眠っていたというけどそこがちょっと、ね」 いつも眠っていた織。 …その疑問がわかるのは、たぶん私だけだ。 織は式より───夢を見るのが好きだったから。 「それで。今も眠っているの、彼は?」 女医の言葉に、私は答えなかった。 「そっか。じゃあやっぱり死んだのね。二年前の事故の時、あなたの代わりになって。 だからあなたの記憶には欠落がある。織クンが受け持っていた二年前の事件の記憶が 曖昧なのはそのせいよ。彼が失われてしまった以上、その記憶は戻らない。…両儀式が 通り魔殺人にどう関わっていたかは、これで本当に闇の中に消えてしまったわ」 「その事件。犯人は捕まってないそうだけど」 「ええ。あなたが事故にあってから嘘みたいに行方を眩ましたわ」 どこまで本気なのか、女医はあははと笑った。 「でも、織クンが消える理由はなかったのよね。だって黙っていれば、消えていたのは 式サンのほうだったでしょ? 彼はどうして、自ら消える事を望んだのかしら」 そんな事、私に聞かれてもわかるものか。 「知らない。それよりはさみは持ってきた?」 「あ、やっぱりダメですって。あなたは前科があるから、刃物は厳禁だそうよ」 女医の言葉は予想通りだ。 日頃のリハビリテーションのおかげか、私の体はなんとか自分で動けるくらいまでに 回復した。日に二回、わずか数分だけの些細な運動でこんなにも早く回復したのは私が 初めてだそうだ。 そのお祝いをしよう、という女医に、私ははさみを欲しがった。 「でもハサミなんか何に使うの? 生け花でもする気?」 「まさか。たんに、髪を切りたかったから」 そう。体が動くようになったら、背中にあたる自分の髪がうっとうしくなった。首筋 からざらざらと肩に流れる髪はこうるさい。 「それなら美容師さんを呼べばいいのに。言いにくいなら私が呼んできましょうか?」 「いい。他人の手が髪に触れるなんて、想像したくもない」 「そうよねー、髪は女の命だもの。あなたは二年前のままなのに、髪だけは伸びていた のって可憐だわ」 女医が立ち上がる音がした。 「それじゃあかわりにこれをあげましょう。ルーンを刻んだだけの石だけど、お守りぐ らいにはなると思うの。ドアの上に置いておくから、誰にも取らせないように注意してね」 女医は椅子を使って扉の上にお守りとやらを置いたようだ。 彼女はそのまま扉を開ける。 「それじゃあ、私はこれで。明日からは別の人で来るかもしれないから、その時はよろ しくね」 おかしな言い回しをして、女医は立ち去っていった。 ◇ その夜、いつもの来客は現れなかった。 深夜になるときまってやってくるモヤのような幽霊は、この日にかぎって病室に入っ てこなかったのだ。 モヤは毎夜やってきては私に触れていた。それが危険な事だとわかっていたが、私は それをほおっておいた。 あの幽霊みたいなものが私に憑りついて殺すというのなら、それもかまわない。 いや。いっそ殺してくれるのなら、どんなにも簡単だろう。 生きている実感のわかない私には、生きていく理由さえない。なら、いっそ消えてし まったほうが楽だ。 闇の中、目蓋をおおう包帯に指を触れさせた。 視力はじき戻ろうとしている。そうしたら私は今度こそ完全に眼球を潰してしまうだ ろう。 今は視えないけれど、治ってしまえばまたアレが視えてしまう。あの世界が見えてし まうぐらいなら、こんな目はいらない。その結果としてこちらの世界が見えなくなった としても、幾分はましだろう。 けれど、私はその瞬間まで行動をおこせないでいる。 かつての式なら迷う事なく眼球を破壊しているだろうに、今の私は仮初めの暗闇をえ た事で停滞しているのだ。 ───なんて、無様。 私は生きる意志もないくせに、死のうとする意志さえない。 無感動な私は、どんな行動にも魅力を感じない。誰かの意志を受け入れる肯定しかで きない。 だから、あの得体のしれないモヤが私を殺すというのならそれを止めない。 死ぬ事に魅力は感じないけれど、それに抵抗する気もない。 …どうせ。喜びも悲しみも、両儀式だったものにしか与えられないというのなら。 今の私は、生きていく意味さえないのだから。